気がつけば、たくさんの「贈与」を受け取って生きていた
この本は、衝撃だ。
強いけれども、温かい衝撃。
何より、コロナ禍という歴史的にも超レアなこのタイミングに、この本と出会えたことは、本当によかった。
この本は、人とのつながりを考え直すキッカケを与えてくれた。
本で紹介されたエピソードや著者の言葉が、いまも心の中に残ってる。
ああ〜、出会えてよかったなぁ。
これは、大切な気づきを記憶に留めておかなければならない。
思いつくがまま、ここに残していこうと思う。
『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』
著:近内悠太
贈与って、なんだ?
自分で買った花と、プレゼントされた(贈与された)花では、同じ花でも意味合いが変わってくる。
そこには、モノとしての価値、つまり商品としての価値からはみ出す何かがあると無意識に感じるのです。商品価値、市場価値には回収できない「余剰」を帯びると言ってもいいかもしれません。
贈与とは、モノを「モノでないモノ」へ変換させる創造的行為に他ならないのです。
だから僕らは、他者から贈与されることでしか、本当に大切なものを手にすることができないのです。
たしかに、プレゼントって特別だ。
モノとしては、もう使わないモノであっても、贈り物だと、「思い出」とか「相手の気持ち」を感じられるから、取っておくことってあるもんなぁ。
要求したわけでもなく、プレゼントとして贈られたモノ。
それを受け取ると言うことは、その相手と何かしらの「繋がり」を持つことを受け入れたことになるし、何かしらのお礼をしたい、と言う気持ちになる。
この贈与によって生まれる「繋がり」は、お金で買うことはできない。
それは、贈与なのか、偽善なのか?
贈与っていうのは、損得感情から始まるモノではない。つまり、お礼を期待して贈与するというのは、贈与ではなく偽善だ。
偽善とは、「恩に報いる」「忠義を尽くす」の裏にある「媚びを売る」「権力におもねる」行為だったり、「お前のことを思って言っているんだよ」というお節介的な呪いの行為のこと。
ふと自分を振り返ると……、損得感情で動いてしまっていた自分がいるなぁとも思う。
ううう、胸が痛いヨォ。
著者は、これを「交換の論理」として説明している。
交換の論理は「差し出すもの」とその「見返り」が等価であるようなやり取りを志向し、貸し借り無しのフラットな関係を求めます。ですから、交換の論理を生きる人は打算的にならざるを得ません。
それゆえ、交換の論理を生きる人間は、他人を「手段」として扱ってしまいます。
この話は、「渡したら、受け取らなくてはならない」という考え方に基づいているわけだけど、この逆になった時も悲劇なのだ。
この観点、すっごーーーーーーく、大事。
「受け取ったら、その人に何かを返さなければならない」と追い詰められた場合、それは自己犠牲になってしまうだ。これもまた、贈与ではない。
「贈与は、それが贈与だと知られてはいけない」ということです。
手渡される瞬間に、それが贈与であることが明らかにされてしまうと、それは直ちに返礼の義務を生み出してしまい、見返りを求めない贈与から「交換」へと変貌してしまいます。
なるほどなぁ。
贈与は、いつかどこかで気づき、別の誰かに受け継いでいければ良いわけで、相手に返さなければいけない義務を感じさせてしまったら、贈与ではなくなってしまう。そこには、犠牲が生まれてしまう。
これ、本当に知れてよかった。
気がつけば、私たちの日常は贈与に溢れていた
何気ない日常のなかで、あふれている無数の贈与(のありがたみ)は隠されています。それらは「あって当たり前」であって、それが無ければ僕らは文句を言う。
その通りだ。
私たちって、当たり前のことへの有り難みを感じることをついつい忘れてしまう。今回、コロナ禍になって、当たり前が当たり前でなくなったからこそ、気づかされたことって数多くある。
それはすなわち、それらが与えられたものであること、それがただただそこに存在すると言う事実が驚くべきことであること、そして、もし失われてしまえば心底困り果ててしまうことに気づくことができないと言うことです。
「ある」ことが、当たり前でなく、誰かの贈与として、自分が受け取っていたんだと感じられた時、 日常の景色が違うものに見えてくる。
インフラ、医療、レストラン、衛生環境……、私の生活はたくさんの贈与のおかげで成り立っているのだ。
贈与に気づけた私たちが取り組むこと
差出人から始まる贈与ではなく。受取人の想像力から始まる贈与を基礎におきました。そして、そこからしか贈与は始まらない。
受け取った純粋な自然の贈与を、それをまだ受け取ることのできていない誰かに向けて転送する。
つまり、贈与を受け取った人は、メッセンジャーになるということです。
世界からどれだけ自分が贈与を受け取っているのか、に気がつくこと。
そして、それを別の人へパスしていく。
自分も、贈与の循環の一部となり、繋いでいくことが大切なんだ。
でも、実は、その繋いでいく行為の結果によって、私たちは、「やりがい」「生きる意味」を感じることができるらしい。
私たちは、贈与によって人と繋がることで、生きる力の源を与えられている。
うん、なんか世界って、思っていたよりも、実は温かいね。
哲学者 近内悠太さんって何者なんだ?!
この本は、たくさん気づきを与えてくれた。
時折、哲学っぽくて小難しいパートもあったけども……、でも、全体としては読みやすく、ひき込まれる内容であった。
こんな気づきを与えてくれた、著者 近内悠太さんってどんな人なんだろう?
1985年生まれ。教育者。哲学研究者。専門はウィトゲンシュタイン哲学。
本が出ます。
— 近内悠太 (@YutaChikauchi) 2020年3月13日
「人とのつながり」を論じた本です。
大切なつながりと出会い直すための本です。
世界は贈与でできている――資本主義の「すきま」を埋める倫理学 (NewsPicksパブリッシング)https://t.co/smzD3sq1fk
うんうん、哲学者といえば、やっぱり丸メガネですよね!(超偏見ですかね、でも褒めております。スミマセン!)
そして、思ったより若いなぁ。お若い哲学者って、初めて見たかも。。。
現在、この本に関わるいろいろな発信をされているようなので、ちょっと見てみたいなと思う。
リベラルアーツを主軸にした総合型学習塾「知窓学舎」講師。教養と哲学を教育の現場から立ち上げ、学問分野を越境する「知のマッシュアップ」を実践している。
へぇ〜、なんだろコレ。
「すべての学習に、教養と哲学を」と言うテーマ、めっちゃ気になるなぁ。
そしてnoteも気になる。本の続きっぽいので、読んでみたいなあ。
ということで、「世界は贈与でできている」で受け取った気づきの纏めは、以上。
周囲への感謝と愛に気づかされる、素敵な本でした♡
ぜひ、皆さんもお試しあれーーーー!
人生の楽しみは、つづく☺︎