和歌から学ぶインスタの心得
2017年の流行語大賞に「インスタ映え」が決まった。かくいうわたしも、インスタユーザーである。
「いい景色だな」と思ったとき、わたしは写真を撮り、そのときの気持ちを言葉にしてInstagramにアップする。
なぜかと言われれば、その瞬間を形に残しておきたい気持ちと、誰かに伝えたい気持ちがあるからだ。
この「いまの情景と想い」をシェアする行為は、昔のひとが和歌を詠む行為と似ているのではないか、と常日頃から思っていた。
それを確かめるべく、よくわかっていなかった和歌の世界に、今日はどっぷり浸ってみよう。
そもそも和歌とは
和歌は、五・七・五・七・七の三十一文字で構成され、感情や情緒を表現したものとされる。詠み手(作者)と読み手(読者)がいるのも特徴で、自己完結ではなく相手に伝えるものである。
その歴史は1300年以上も前にも遡り、最古の歌集としては万葉集が有名だ。
五・七・五の俳句とは異なり、和歌には季語は不要。難しいルールもない。その特性から、和歌は俳句よりも自由に情景や感情を表すことができる。
参考: 和歌・短歌|日本文化いろは事典
三十一文字に潜む、巧みな表現技法
和歌には独特の表現技法がある。代表的なものを簡単に紹介する。
- 枕詞(まくらことば)
「たらちねの」と言えば「母」でお馴染みの枕詞。それ自体には意味はなく、特定の言葉の修飾をする言葉。その数はなんと1200語(!)だ。
枕詞により、読み手は次くる言葉が予測でき、その世界観に導かれる。
三十一文字という限られたなかで、文字数を消化してまでも枕詞をつけることは、詠み手にとっては相当な勇気だと思う。
枕詞の存在は、詠み手(作者)の表現のしやすさよりも、読み手(読者)を歌に引き込むことを優先していると捉えられる。
そう思うと、和歌は、読み手の理解と共感をとても大切にしていることがわかる。
- 掛詞(かけことば)
音が同じあるいは似ている言葉に、2つ以上の意味を持たせること。例えば「松」と「待つ」、「長雨(ながめ)」と「眺め」など、その数120語。
掛詞は「音」がある前提の話。文字面だけではわからなくても、声に出して詠めば掛かっていることに気が付ける。
和歌では、前半と後半に異なる文脈が詠まれることがある。例えば、前半に情景を描き、後半に自身の想いを述べるといった具合。
それぞれに掛詞があると、不思議とつながり感がうまれる。読み手に対し、異なる二つ文脈の必然性を感じさせる効果があるのだ。
表現技法はこれ以外にも序詞(じょことば)、縁語(えんご)、本歌取り(ほんかどり)などがあり、和歌の魅力を引き立てている。
これら和歌の表現技法については、こちらの本に大変わかりやすく纏められている。
著者の渡部泰明さんの表現が、知的で軽快でセンスが良くて、とにかく最高な本である。今回のブログも、こちらの本を参考として書かせていただいた。
ときに魅せ、ときにパクり、ときに嘘をつく
万葉集や古今和歌集といった古歌から、現代の短歌まで。実際の歌を見ながら、その特徴を見ていこう。
- 一見正統派、じつは相当なテクニシャン
1つ目は、古今和歌集から在原業平の歌。旅の途中、美しく咲く「かきつばた」を前に歌ったもの。
唐衣(からころも)きつつなれにしつましあれば
はるばるきぬる旅(たび)をしぞ思ふ
「都にいる妻を思うと、はるばる遠くまで旅をしてきた実感がわくなあ」という旅愁の歌。しかし、それだけで無く、巧みな表現技法が潜んでいるのだ。
まず、各句の頭文字を集めると「かきつは(ば)た」となる折句という技法を使われている。各句の書きだしに文字制約があるなかでつくられた歌だということが分かる。
さらに、「唐衣」に対して、つま(妻と褄)、はる(遥と張る)、き(来と着)という関係の近い言葉を連続して用いる縁語という技法が使われている。
ピュアな妻を想う気持ちを歌いつつ、巧妙にテクニックを使う詠み手。名歌と言われる所以である。
- パクり&切り返しセンスに脱帽
満開の桜の枝を挿した瓶を前にした中宮定子(清少納言のボス)は、女房たちに「いま思った和歌を書きなさい」と告げる。そこで清少納言が切り返した歌がこちら。
実はこれ、以下にある藤原良房の古歌を一文字だけ変えて歌った、頭脳プレーである。
良房は「自分は老いたが、瓶に刺した桜を見ていると悩みも吹き飛ぶ」と歌っていた。
一方、清少納言は一文字変えることで「自分は老いたが、定子様のお姿を見ていると悩みも吹き飛ぶ」と歌う。
似ているシーンの古歌を用いてアレンジし、ボスへの想いを表現した清少納言の知的センスを感じられるオシャレな歌。
- 読み手に伝える為ならば、嘘も方便
3つ目は、俵万智さんがご自身の経験をもとに歌ったもの。
「この味がいいね」と君が言ったから
七月六日はサラダ記念日
しかし、実際は、褒められたのはサラダではなくカレー風味の唐揚げで、日付も六月七日だとか。
事実に正直に歌をつくれば、この作品のような軽やかさは絶対に出てこないだろう。
(カレー風味の唐揚げじゃあ、茶色すぎるし、言葉の音も重たすぎる……! )
詠み手の想いを正しく伝えるためには、時として事実を曲げる必要もあるという事が言えるだろう。
和歌の世界観からSNSを考える
今日学んだことは、和歌の世界のほんの一部すぎないけど、小難しさよりも面白さを感じられた。
やはり、「いまの情景と想い」をシェアする気持ちは、平安時代も現代も通じるものがあると思う。
先ほど紹介した本「和歌とは何か」のなかに次のような記載がある。
古代の天皇は、四季折々に群臣を召し、和歌を詠ませ、その折々の風物をどう表現するかで、臣下の賢さ・愚かさを判断したのだという。(中略)
花や月の美しさを表現する。それはすでに個人的な感情ではない。花月に感動するそのことそのものが、宮廷人としての資格を表すのであり、それを表現するとは、宮廷人の思いを望ましい形で代弁する行為である。
和歌には、「個人的な感情を社会化する」ことが求められるそうだ。
自分が思ったことを直球で伝えればいいという訳でもなく、相手に合わせて自分をおし殺す訳でもなく、個人的な心情をその場にふさわしい形で表現するということ。
「和歌の言葉の工夫とは、自分を社会化する努力の跡」である。
ああ…… その表現、とても刺さります。
いま自分がピュアに感じることに目を向け、それを言葉にし、相手に伝わるよう工夫をし、形にしていくこと。
このシンプルな流れをみんなが理解したら、SNSのあり方がもっと豊かに変わるかもしれません。
和歌の世界観はとても広く、深い。親しみやすさと同時に、悟りのような側面も感じる。
これが和歌の魅力なのだろうか。
和歌の世界にどんどん吸い込まれていきそう!
楽しみはつづく☺︎