ブラレイコ

ブラっと訪れた人生の寄り道からの学びを、ゆるふわに綴る場所

「日本文化の核心」に迫りきれず、溺れながら書いた備忘録

以前この本「日本文化の核心」を読んだとき、作者 松岡正剛さんの知性が広く深すぎて、溺れた。

時代もジャンルも制限なく、次々と溢れてくる知識量に追いつかず、溺れた。


この本は、海のようだと思った。


文章はとても美しくわかり易いのに、読み手の器が伴わなければ、本に溺れることってあるんだなと学んだ一冊。

 

それ以降、しばらく距離を置いていたのだけど、もう一度手に取ってみようと思う。
溺れながらも心に残った言葉を、せめて記録に残しておくために。

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・和漢の境をまたぐ、日本文化

日本文化は「中国語のリミックス」で花開いた、と作者は記している。
古来より、漢(中国)と和(日本)は交流があり、様々な文化が大陸から日本へと流れてきた。禅宗、お茶、漢字など。

禅宗が日本に入ってくると禅寺が造営され、その一角に枯山水が出現する。中国の庭園は、植物も石も多々あるのに対して、日本の枯山水は最小限の石と植栽だけで作られ、水も使わずに石だけで水の流れを表現している。中国のものからの「引き算」が行われている。

お茶も中国から入ってきて、喫茶習慣を真似ていたが、その後「草庵の茶」という詫び茶の風味や所作に転化。茶室も独特の風情で作られ、出来るだけ小さな躙口(にじりぐち)や床の間をしつらえるようになった。これも中国の喫茶にはないものであり、「引き算」が行われている。

漢字に至っては、中国の元々の発音に倣って読むだけではなく、縄文時代から喋り続けていた自分たちの発話性に合わせ、かぶせるように読み下し、音読みと訓読みが生まれた。

私たちは中国というグローバルスタンダードを導入し、学び始めたその最初の時点で早くもリミックスを始めていたのです。

日本は「漢」に学んで漢を離れ、「和」を仕込んで和漢の境に遊ぶようになったのです。

 

・「和する」と「荒ぶる」のデュアル

日本文化には、茶の湯や生け花のように静かなものと、ナマハゲや山伏の修行のように荒々しいものが共存している、と言う。

歌舞伎にも、荒事と和事がある。お能には、「移り舞」と言って、象徴的な「神」と「鬼」が互いに入れ替わる瞬間がある。つまり、「静」と「動」は一対であり、デュアルである。

日本では、この「和」と「荒」との併存が、日本の精神やルーツと深く関係しているのです。

日本人の心の奥の奥には「和するもの」と「荒ぶるもの」とが関わってくると考えられていたのです。

それを「和御魂」(にぎみたま・にぎたま)と「荒御魂」(あらみたま・あらたま)と呼び、神々にはこの二つの傾向があると考えた。柔らかくて優しい魂が和御霊で、強くて荒々しい魂が荒御霊です。和御霊にはさらに幸御霊(さきみたま)と奇御霊(くしみたま)がひそむとも考えました。

日本神話であるアマテラスとスサノオの対比関係が、まさに和御霊と荒御霊のシンボルであり、日本を語るうえでは、きわめて重要なものらしい。

 

・「わび」と「さび」とは

サビは「寂び」と綴る。サビとは、それが持っている風情の本質が滲み出ていること。

サビは、日本人の美意識をあらわす指標のひとつとなるもので、とくに遊芸の場面で大いに追及されました。

サビの感覚は「もののあはれ」につながる。これは、王朝貴族が好んだ美意識や心情であり、かわいそうという「あはれ」とは別物。

西行に「都にて月をあはれとおもひしは数よりほかのすさびなり蹴り」という歌があり、まさに「サビ」「あはれ」を言い表している。

旅先で月をみて、都で月を「あはれ」だと感じていたけれど、そんなものが物の数にも入らないほど哀切だ、これこそがスサビだという歌です。

 この「あはれ」は武家社会で「あっぱれ」に転じるらしい。この「あはれ」と「あっぱれ」の関係もデュアルであり、「和事」「荒事」が関与しているらしい。

 

ワビは、「詫びしい暮らしのなかで、あたかも不如意を詫びるかのように、心ばかりのもてなしをする」ということ。「ワビ」は「侘び」であり「詫び」に通じる。

出家し旅をしている途中の仮住まいのなか、誰かが訪ねてくる。

そこで主人は「こんなところに来ていただいて嬉しいが、申し訳ないことに私は何ももっていないので、ろくな調度も茶碗もない。けれどももしこんな茶碗でよろしければ、いまお茶をさしあげよう」と言って、ゆっくりお茶をさしあげる。「さいわい、外の草むらにはススキがみごとに穂を出している。それをこの瓶に一本生けて、熱いお茶を進ぜよう」などというふうになる。いわば、不如意をお詫びして、数奇の心の一端を差し出すのです。

数奇の心とは、何かを好きになり、その好きになったことに集中し、その遊び方に独特の美を感知しようとしていくことを意味する。

詫びる気持ちが、何よりも尊い。「詫び」の気持ちの交わし合いが、「侘び」という価値を生んでいる。

 

日本の「学び」の根幹

何をもって日本は「学び」とするべきなのか、そこにどんな方針や方向や方法があるのかというと、私はいったん「世阿弥に戻ってみる」のがいいと思っています。

 世阿弥が作品にも芸能書にも貫いたことは何かというと、ずばり「まなび」は「まねび」であるということでした。

世阿弥は、能が求める最も大切なことを「花」とした。花とは、「まこと」であり「真なるもの」のこと。

世阿弥は、これを理解するためには、「真(まこと)」が外にあらわしているだろう「体(たい)」を「まねび」ることが必要と考えた。そうすることで、「体」は能役者の体に映って「風体(ふうたい・ふうてい)」になる。そのために、稽古をする。

稽古とは、「古(いにしえ)を稽(かんが)える」ということ。そのために、「物学(ものまね)」をすることが必要であると考えた。

古の「もの」に学ぶことが必要です。日本における「もの」とは「物」であって「霊」です。その「もの」が語りだすのが「物・語り」です。

こうして世阿弥は「まなび」を稽古することをもって「まこと」に近づいていくことを「まなび」としたわけです。

世阿弥については、以前より私も興味があり。こんなブログも書いているので貼っておく。

reicoouchi.hatenablog.com

 

「おもかげ」と「うつろい」

日本文化の精髄は「おもかげ」を通すことによって一途に極められ、「うつろい」を意識することによって多様に表象されてきた(中略)

日本は一途な「おもかげ」を追い求め、多様な「うつろい」を通過してきたのではないか。 

おもかげとは、面影・俤・於母影などと綴り、何かを思い浮かべてみたときに脳裡(のうり)に映るイメージ。源氏物語などで、幻影やまぼろし としての記載がある。

うつろいとは、四季のように移ろい、花の色や人の心のように変化していく「常ならぬ」さまをあらわす。「うつろい」は、「うつる」の名詞であり、移る・映る・写るが含まれている。

私は、このことを人の感情や印象にとどめず、「日本という国」が面影を求めて移ろってきたというふうに捉えたのです。そしてそのプロセスにさまざまな日本文化が結晶してきたと捉えたのです。 

 

・一途で多様な日本はどこに向かうのか

書の中で紹介されていた、 清沢満之が考えた「二項同体」という話がある。
清沢とは、浄土真宗の僧侶だ。

清沢が最も鮮明に打ち出したのは、西洋の「二項対立」によるロジックの組み立てに疑問をもって、日本人はむしろ「二項同体」という考え方を持つべきだということです。(中略)

二つのもののどちらかを選択するのではなく、つまりどちらかを切り捨てるのではなく、あえて「二つながらの関係」に注目しようという態度です。そして日本自体が「ミニマル・ポッシブル(あえて清貧に甘んじる)」を表明すべきだと言明した。

この考えは、個人的にはスッと腹に落ちた。

西洋的考えでは、うまく説明しきれない何かが、この国にはあるのは間違いない。

 

この本を読みながら思うのは、どうして自国の文化を理解するのに、これほど難解な気持ちになるのだろう、ということ。

しかし、何事もシンプルにロジックで説明できるとは限らない。そう捉えようとしている思考自体が西洋的だったのかもしれない。

日本文化の正体はたいそう微妙で、たいそう複雑なのです。グローバル資本主義コンプライアンスの蔓延が、これらの「一途で多様な日本」や「微妙で截然とした日本」をカラッケツにしてしまわないことを祈るばかりです。


私は、日本という国が好きだし、古典を知れば知るほど「独特の美意識」の魅力を感じてやまない。「ワビ・サビ」「粋」「通」「はかない」「あはれ」など、とても繊細で微妙だけれども感覚でわかる表現。

日本文化には複合性や複雑性があることを受け入れて、一言では語れないこの魅力を未来につなげていければいいなあと思う。

 

私自身が理解しきれていないものをブログに書いているので、この記事は 相当読みづらい内容だと思われる。

それでも、何かしら興味がわくキッカケになったのならば、ぜひこちらの書籍を読んでいただければ嬉しい。

 

今回も、書籍を読み追えても、理解はまだまだ浅いなあと感じる。

またしても、溺れてしまった。

でも、読み直して良かった。

 

 

最後まで読んでくださりありがとうございました☺︎