古典ブーム到来!人は古典に何を求める?
古典を知る魅力は、その普遍性と美意識にあるのかもしれない。
そう思うと、自分が古典に惹かれている理由も腹落ちする。
私の中にある「今に活きる何かを学びたい欲」と「美しさに触れて人生を豊かにしたい欲」が、古典を知ることによって満たされるのだ。
さて、今回は、ゴールデンウィーク前半に出逢った本の一部を記録する。まだ咀嚼しきれていない部分も多いけれど、自分の頭の整理をするためにも文章化をしておこうと思う。
宗教人類学者 中沢新一の世界
まず、今回最初に手にした書籍がこちら、中沢新一さんの「日本文学の大地」。理由はシンプルで、帯に書かれているキャッチコピー「心を自由に解きほぐす豊饒(ほうじょう)なる古典文学の世界!」 に惹かれたのだ。
結果として、想像を超えた角度の気づきを与えてくれた良本だった。
中沢さんは、日本の古典文学を生み出した背景には、独特な「心的な空間」があったと考えている。この空間は、自然と文化が連続してつながりあい、自然が文化の中に折りたたみ込まれ、文化は自然の内奥に向かっていくことを理想としている。まさに、自然と文化が相互貫入している空間だ。
しかし、明治初期に、この「心的な空間」構造は解体し、西欧の影響を受けた近代文学が生まれることになる。
それでも、現代の私たちは、心の何処かで、日本の古典文学に懐かしさや魅力を感じてしまう。それは、日本人の心の中に、この「心的な空間」が無意識に生き続けているからだ、と中沢さんは語りかける。
書籍の中では、万葉集、源氏物語、新古今和歌集、太平記、芭蕉、井原西鶴、近松門左衛門…… など、代表的な古典文学が紹介がされている。
時代背景や、中沢さんの独特の視点での解説を聞いたうえで古典を読むのは、新しい発見に繋がり面白かった。
・万葉集より
この章において、最も印象的な文章がこちら。
人間は、たかが千年くらいでは、たいして変化しない。言霊の実感に生きる『万葉集』の詩人たちの思考法と、貨幣の魔力とともに生きる私たちの世界の間には、そう思われているほどの違いはない。それくらい思い切ってみることによって、私たちは『万葉集』の中に、未知の豊穣を発見することができるかもしれない。
この文章に至る理由を、以下にまとめる。
万葉の時代、「言霊」「事霊」として存在を信じられてきた「何か」を流動させ続けることにより、この世の富や幸や生命を増殖させると信じられていた。だから人々は、歌を詠み、良い歌で世界を幸せにしよう考えた。
その考えを表現している、柿本人麻呂の歌がある。(この歌、私はとっても好き)
磯城島(しきしま)の大和(やまと)の国は
言霊の 幸(さき)はふ国ぞ 幸(さき)くありこそ
言霊の八十(やそ)の衢(ちまた)に夕占(ゆうけ)問ふ
占正(うらまさ)に告(の)る 妹(いも)はあひ寄らむ
中沢さんは、この言霊の思考と、現代の貨幣経済システムが似ていると考えている。
現代の私たちは、貨幣という現代の「言霊」が、地球的な規模で流動していて、その力に突き動かされていることを感じている。
つまりは、流動する「何か」を感じ、そこから幸を得られると信じている思考が、万葉集の時代と現代において共通している、ということだ。
ただし、万葉の時代の「言霊」は「無」から生まれたものだが、貨幣は偽りの無(もともとは物の価値としての貨幣の存在だから、無ではなく有)である。その偽りの無からは、物質的な豊かさは生まれても、万葉の時代のような「幸せ」は生まれないのかもしれない。
今の時代に、幸福論などが注目を浴びるのも、物理的な豊かさ以外を人類は求めるようになったからなのかなあ、など考えてしまう。
・松尾芭蕉より
俳句の世界は、芭蕉の前と後では、大きな変化があったようだ。
芭蕉以前の俳句は、機知やユーモアや機転の早さなどを互いに競い合って、評価し合うゲーム性の強い言語芸術(芸術よりも芸能的)と言われてきた。
本書では、芭蕉以前の俳句と芭蕉の俳句を比べながら、その違いを解説してくれている。
かぜ寒し 破れ障子の 神無月
ポイントは「障子の神無月」にあり、神様の「神」と障子の「紙」がかけ言葉になっているところらしい。このような言葉の用法を「圧縮の効果」と呼ぶらしい。
「カミ」の音の意味する共通性に気付いた時、聞き手はハッとさせられるのである。当時の俳句は、このような言葉の利発さや機敏さが、人に感銘を与えると考えられていた。
続いては、芭蕉の代表作。
古池や 蛙飛びこむ 水のおと
この句の特徴は、「圧縮の効果」が全く働かないように作られていることらしい。
芭蕉の創出した俳句という芸術は、そのような人間主義の底部をぬいてしまう、革命をおこなったのである。それは、滑稽や洒落を排して、閑寂の趣を詠む。言葉の機構の中で、圧縮とか重ね合わせがおこなわれて、比喩が働き出すことをできるだけなくして(比喩が働き出すと、例の「圧縮の効果」が作動してしまうからである)、言葉と現実とが、あいだに想像的な媒体物をなにもいれることなく、裸の状態で、行ったり来たりを実現する、そういう言葉の、新しい機構を作りだそうとした。それが、芭蕉のおこなった革命なのだ。
そうだったのかあ…… 。
俳句の言葉のなかに、意図するものとか・捻ったことが無いからこそ、そのままの情景が伝わり、その先に感じるのだろうか。
木(こ)のもとに汁も鱠(なます)も 桜かな
この俳句に対して、中沢さんは次のような解説を添えている。
すべてがただ存在しながら、自分が存在しているということを、なにかの「富」につくりかえることなく、ただゴージャスに蕩尽(とうじん)しつくすだけ。妄想のはいりこむ余地はなく、ここにいたっては、談林派的な機知やユーモアも、ただ人間くさい卑俗にすぎないように、感じられるのである。
芭蕉は、俳句を探求するなかから、ある種の悟りというのか、境地という、独自の世界観を見出したことは間違いない。中沢さんは、それを「文学の唯物論」であるとか「俳句は生産しない。ただ蕩尽する」などと表現していた。
芭蕉は、自然に感じたことを、そのまま受け止めて、自らの中で妙なアレンジをすることなく、俳句としてそのまま表現したのだろうか。
自分であって自分でない、自然と自分に堺がない、人間という単体よりも自然の一部となっていたのだろうか。
そう言えば、松尾芭蕉は、次のような言葉を残していた。
松の事は松に習へ 竹の事は竹に習へ
自我を捨てて、自分が表現したいものと一体になる、という考え。今回の俳句の改革に通じるものがあるなあ。
芭蕉は、誰よりも、物事の本質を見極めて生きてきた人に違いない。
芭蕉については、ぜひ知見を深めていきたいなあと思い、次はこちらの本で勉強して見る予定。 (虚子が語る芭蕉だなんて、興味深い!!!)
古典から得る学びも、また多様である
今回紹介した章以外にも、近松門左衛門、新古今和歌集、禅竹、歎異抄など、作者の独特な視点での解釈は、面白いものが多かった。
古典作品の創作には、自然や当時の社会システムをありのままに捉えている姿勢(というより、受容力?)があるように感じた。それが、作者中沢さんが言っている「独特な心的な空間」なのかもしれない。
古典作品は、言葉が古いので、なかなか読んで理解するのは難しい。だが、今回のように、歴史的な背景や特徴、そして作者の解釈があると、自分なりの理解と学びを得ることができるので有難い。
しかし、古典を学ぶのは、とってもヘビーだなあと思う。以前、世阿弥の風姿花伝を読んだ時も同じことを思った。
世阿弥の言葉の奥深さを汲み取るのが、結構ハードで、自分自身の解釈をつけられるまでに、想像以上の時間を要した。
人の言葉の重みって、その人の”考えの深さ” × ”考えの時間軸の長さ”で表されると思うのだけれど、世阿弥の言葉は、とても考えが深い、かつ1400年から未来(自分が死んだ先の、遠い遠い後世)を見つめているので時間軸の長さが半端ない。
つまり、言葉の一つひとつが本当に重い。
古典は、ほんと、言葉が重い。でも、そこに時代を超えて受け継がれた叡智が集約されているのかと思うと、本当に贅沢だし、有難いなあと思う。
そして、今回の本を読んだおかげで、次の学びに繋がる新たな出逢いもあった。
例えば、こちらは川端康成がノーベル賞受賞をしたときのスピーチをまとめた書籍だ。今回、新古今和歌集のところで少し紹介されていて、興味を持って購入した。
こちらもまた、川端康成の独自の日本の古典文学への解釈があり面白い。感想は、追ってブログにまとめる予定。
続いてこちら。
こちらは、書籍ではない。糸井重里さんの、ほぼ日刊新聞のコンテンツだ。
中沢さん、糸井さん、タモリさんの対談コンテンツなのだが、旧石器時代と現代のつながりを紐解く、壮大なストーリー。
ちょっとボリューミーなので読むのは大変だが、縄文時代の魅力たっぷりの歴史ロマンを感じることができる。(古典をすっ飛んで、人類史のようなお話)
本屋さんに行っても、教養として古典を学ぶことは一種のブームになっているようにも感じる。
情報溢れるこの時代に、人はなぜ古典を求めるのだろう。何を学び、何を未来に繋げようとしているのだろう。
これは、今後探求したいテーマでもあるなあ。
そして、楽しみはつづく☺︎