ブラレイコ

ブラっと訪れた人生の寄り道からの学びを、ゆるふわに綴る場所

風姿花伝には、想像以上に人生への教訓が詰まっていた

秘すれば花

秘する花を知ること。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。 

この「風姿花伝」の一節は、世阿弥が伝えようとする芸能論を理解するうえで、最も大切な考え方を記している。

世阿弥は、能楽を通じて、ある種の人生哲学を生み出す。そこには、現代人にも活きる素晴らしい教えがある。

世阿弥の考えた「花」とは何か、「花」を秘するとはどういうことか。それを紐解けば、きっと、何かを学ぼうとする全ての人に気づきを与えてくれるはず。

 

 

風姿花伝」とは何か

1400年頃、世阿弥が亡き父観阿弥能楽の教えを祖述したもの。それが「風姿花伝」。

原文は古典なので、慣れないわたしには少々読みづらい。が、書かれている内容としては非常に端的であった。

今回は、原文と解説文を同時に読むことができる、林望氏の「すらすら読める風姿花伝」を参考に、感想をまとめる。

現代においても十分理解ができる内容になっている。 

すらすら読める風姿花伝 (講談社+α文庫)

すらすら読める風姿花伝 (講談社+α文庫)

 

風姿花伝の目次と概要は、以下。

 

第一 年来稽古(ねんらいけいこ)条々
七歳から五十歳までの年齢別の能楽稽古の心得的なもの。子供に芸事を教えるときの注意点から、十代でのスランプの乗り切り方、花盛りでの注意点と、四十代以降での退き方のポイントを説く。とても具体的。

第二 物学(ものまね)条々
能楽のジャンル別の演技論。ジャンルは、女・老人・直面(ひためん)・物狂(ものぐるい)・法師・修羅・神・鬼・唐事(からごと)の九種類。演劇は、ありのままを写実すれば良いとも限らず、独自の「非写実的真実」の考え方が求められるそう。写実と虚構の絶妙なニュアンスについて説く。

第三 問答(もんどう)条々
QA形式に書かれており、世阿弥の質問に観阿弥が答えたと考えられる章。演出的な視点や、能楽の美学について書かれている。

第四 神儀云(しんぎいわく)
こちらは「すらすら読める風姿花伝」からは割愛されている章。能楽の歴史、発生、伝説について書かれているらしいが、文体や内容なども他の章とは異なるようだ。

第五 奥義云
世阿弥の属した大和申楽(やまとさるがく)と、近江(おうみ)申楽、田楽(でんがく)との流儀の違いが書かれている。他の流儀からも学ぼうとする姿勢と、本当の意味で後世に何を残せばいいのかと考える世阿弥の視座の高さを感じ取れる。

第六 花修(かしゅう)云 
実際の演技の方法について論じる。演者視点に加えて、構成作家的な視点も含まれており、世阿弥が劇作家としても素晴らしい才を持っていたことがわかる。

第七 別紙口伝
明確に、世阿弥の考える「花」に関しての記述のある章。これまでの各章でも語られていた花を、より明確に説明をしており、独自の哲学がここに詰まっている。

 

 

世阿弥が説く「花」

世阿弥は、芸能のもっとも大切な勘所、一世一代の見せ所のようなものを「花」と表現し、風姿花伝のなかで、その大切さを語っている。

この、何とも言葉にはしづらい「花」を、様々な表現で説明をしているので、いくつかご紹介。

各種の芸を稽古しつくし、工夫に工夫を加えて後、はじめて永続する「花」すなわち一生失せない芸の美を知ることができる。 

稽古と工夫を頑張った先に、一生の「花」を手に入れられる。

己の芸の格をよくよく心得て勘違いしないようにしていれば、それ相応の花は一生のあいだ失せることがない。しかし、慢心して相応の位よりも上手なのだと思い込んだら最後、それまで持っていた花もすべて消え失せてしまうのだということである。

自分イケてるな、と勘違いをしたら最後、花はすべてなくなってしまうなんて・・・慢心ってば恐ろしい。

そもそも、花というものは、万木千草(ばんぼくせんそう)において、四季折々に咲くものであるから、ああ春になった、夏になったと、季節ごとにその都度花をみて珍しく思いもし愛で楽しみもするわけである。

能もこれと同じで、見ている人の心に「ああ、珍しい」と思うところがあれば、すなわちそれを面白いと思う心理である。したがって「花」と「面白い」と「珍しい」の三つは本来同じ心から発する三つの側面にすぎない。

「花」を「感動」とか「優美」というよりも、「面白い」「珍しい」と言った興味関心・好奇心のような表現をしている。いい意味で、相手の気を引くことが、芸能の未来に繋がると考えたのだろうか?

 

秘する花を知ること。「秘すれば花なり。秘せずは花なるべからず」となり。この分け目を知ること、肝要の花なり。  

そして、冒頭でも紹介したこちらの文章だ。
「花」は開けっぴろげにするものではなく、自分の中に秘めておくものだ、としている。最初から、「花」となる見所を明かしてしまえば、 相手は面白さを感じるわけはない。だから、ここぞという場で見せるために、準備し温めておくものなのだ。



風姿花伝の最後には、次のように記されている。

わが能の道の様々な芸態も、現代の人々、あるいは演能の場所場所によって、その時のおおかたの好みにしたがってふさわしいものを取り出して演じると、これが観客の心に叶い、花となって役に立つということであろう。
(中略)これは見ている人の、それぞれの心々に存在する「花」というものである。さて、そういう風に時に応じて変異する花、そのいずれを本当の花とすべきなのであろうか。せんずるところ、ただその時々に応じてもっとも適切なものを用いることを以て「花」と知るべきなのであろう。

ここでは、「花」は自分ではなく相手の心のなかになるもの、と言っている。

「花」であるかどうかは、相手が決めることであり、その到達を目指して、芸能の努力や工夫を怠ってはならない。そうすれば、相手やその場に合わせた芸能を提供することができるようになり、相手の心に「花」を咲かすことができる。

そんなメッセージのように感じた。

 

 

孤高の天才 世阿弥の人生

世阿弥は、幼い頃から父 観阿弥からの英才教育を受け、天才と呼ばれ、周囲から賞賛を浴びてきた。しかも相当のイケメンで足利義満からも可愛がられたらしい。

一見すると、華々しい人生だなあと思ったけれど、
風姿花伝から読み取れる世阿弥の姿は、とてもストイックで客観性を持った努力家だった。


奥義云のなかで、世阿弥は「風姿花伝」の名前の由来を次のように話している。

とくにこの能という芸能は、本来先人の教えた風姿を継承するのが大切なのだが、しかし、それだけではだめで、そこに各自の工夫・才能によって新しく拓いてゆく面もなくてはいけないわけだから、そう簡単に言葉で説明することができぬ。すなわち、先人からの芸の風刺を継承しつつ、心から心へ言葉を超越して伝授していく「花」が大切だという意味合いで『風姿花伝』と名付けるのである。


さらに、こんなことまで言っている。

家、家にあらず、次ぐをもて家とす。人、人にあらず、知るをもて人とす。

つまり、「才能は遺伝するとは限らない」として、才覚知性人格の優れた人を選んで継がせるという、極めて合理的な考え方を述べている。

(血縁を大事にしていそうな時代に、結構大胆な宣言をしていることに驚き・・・!)

世阿弥は、若干三十七歳のときに、この風姿花伝を書きはじめている。まるで、能の未来を一人で背負って、未来を案じているかのよう。

 

 

現代に受け継がれる風姿花伝

ここまで、「花」について紹介したけれど、風姿花伝の教えはそれ以外にもたくさんある。

わかりやすく纏っているサイトがあったので、ご紹介。

www.the-noh.com


一部をサイトから抜粋。

 
・初心忘るるべからず

世阿弥にとっての「初心」とは、新しい事態に直面した時の対処方法、すなわち、試練を乗り越えていく考え方を意味しています。つまり、「初心を忘れるな」とは、人生の試練の時に、どうやってその試練を乗り越えていったのか、という経験を忘れるなということなのです。

・離見の見(りけんのけん)

自分の姿を左右前後から、よくよく見なければならない。これが「離見の見(りけんのけん)」です。これは、「見所同見(けんじょどうけん)」とも言われます。見所は、観客席のことなので、客席で見ている観客の目で自分をみなさい、ということです。

・稽古は強かれ、情識はなかれ

「情識」(じょうしき)とは、傲慢とか慢心といった意味です。「稽古も舞台も、厳しい態度でつとめ、決して傲慢になってはいけない。」という意味のことばです。世阿弥は、後生に残した著作の中で、繰り返しこのことばを使っています。

  

ちょっと紹介しただけでも、現代にも活きる教訓の数々が詰まっていることがわかる。これが、風姿花伝が、最古の演劇論とも、芸能の教育論とも、人生論とも言われる所以だ。

 

 

 南の島で読む本としてはヘビーだった、風姿花伝

今回、遅めの夏休みを取り、南の島へ来ているのだけど、そこで読もうとした本が、この「風姿花伝」であった。もともと、世阿弥の考えには興味関心があり、いつか読みたいなと思っていたので、夏休みのお供にちょうど良い、と思ってしまったのだ。

しかし、実際に読んで見ると、それは大きな間違いだった。世阿弥の言葉の奥深さを汲み取るのが、結構ハードで、自分自身の解釈をつけられるまでに、想像以上の時間を要した。

人の言葉の重みって、その人の”考えの深さ” × ”考えの時間軸の長さ”で表されると思うのだけれど、世阿弥の言葉は、とても考えが深い、かつ1400年から未来(自分が死んだ先の、遠い遠い後世)を見つめているので時間軸の長さが半端ない。


つまり、言葉の一つひとつが本当に重い。

夏休みに、南の島で読もうという書ではない。絶対、向かない。そこのチョイスは確実に間違ってしまった。

南の島で読み解ける内容は、今日ブログに記したレベルにすぎないが、本当はもっともっと自分の人生を見直すきっかけになるレベルの素晴らしい書籍なのだと思う。

東京に戻ってから、改めて読み直す必要がありそう。

そう誓って、今回は、本を素直に閉じたのでした。

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なんくるないさー。

 

 

楽しみはつづく☺︎