ブラレイコ

ブラっと訪れた人生の寄り道からの学びを、ゆるふわに綴る場所

知的セクシーな岡倉天心の表現力に萌える

その文章を読んだとき、心の内側にある何かが湧き上がり、高揚が止まらないほどの感動を覚えた。

美しくて、愛があり、知性が溢れる言葉の羅列に、一瞬にして恋に落ちた。その文章の全てが完璧な表現で、圧倒的で、わたしのハートのど真ん中を一瞬にして撃ち抜いた。 

それは、岡倉天心茶の本」第六章 花の冒頭文であった。

春の東雲(しののめ)のふるえる薄明に、小鳥が木の間で、わけのありそうな調子でささやいている時、諸君らは彼らがそのつれあいに花のことを語っているのだと感じたことはありませんか。人間について見れば、花を鑑賞することはどうも恋愛の詩と時を同じくして起こっているようである。無意識のゆえに麗しく、沈黙のために芳しい花の姿ではなくて、どこに処女(おとめ)の心の解ける姿を想像することができよう。原始時代の人はその恋人に初めて花輪をささげると、それによって獣性を脱した。彼をこうして、粗野な自然の必要を超越して人間らしくなった。彼が不必要な物の微妙な用途を認めた時、彼は芸術の国に入ったのである。

 

ああ、なんて美しい表現…… !
何度読んでも、惚れ惚れする文章。素晴らしすぎて、心拍数がおさまりません。

 

この文章との出逢いから数年が経った今日、想像もしなかったスペシャルな発見があったのです……!

 

改めて読み返す「茶の本

岡倉天心(本名 岡倉覚三)。彼は、明治時代の思想家であり、日本美術史を語るうえでは外せない人物の一人。

茶の本」とは、明治時代に、西洋人に対して「茶道」を理解させるために、天心が英文で書いたものである。日本に関する独自の文明論とも言われる世界的ベストセラー本だ。

茶の本 (岩波文庫)

茶の本 (岩波文庫)

 

今朝、ふと思い立って、「茶の本」を久しぶりに手に取った。

せっかくだから、本の中からお気に入りのフレーズをセレクトして、自分の解釈をまとめておくことにした。

 

茶道は日常生活の俗事の中に存する美しきものを崇拝することに基づく一種の儀式であって、純粋と調和、相互愛の神秘、社会秩序のローマン主義を諄々(じゅんじゅん)と教える者である。

茶道の要義は「不完全なもの」を崇拝するにある。いわゆる人生というこの不可思議なもののうちに、何か可能な物を成就しようとするやさしい企てであるから。

第一章の最初の方に書かれている一節。茶道は、特殊なものではなく、日常の中にあるものだ。日常の営みを、芸術的、宗教的と捉える茶道の考えは、西洋にはない日本独特な価値観なのだ。

 

おのれを虚にして他を自由に入らすことのできる人は、すべての立場を自由に行動することができるようになるであろう。全体は常に部分を支配することができるのである。

第三章 道教と禅道より。 個人を考えるためには、全体を考えることを忘れてはならないということ。老師は、それを「虚」と表現した。自己に固執せず、自己を虚で保つことで、全てを包含することができる。

 

人はおのれを美しくしてはじめて美に近づく権利が生まれるのであるから。かようにして宗匠たちはただの芸術家以上のものすなわち芸術そのものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。

第七章 茶の宗匠より。この考えによって、茶道はあらゆる日本文化(着物、絵画、建築、陶器など)へ影響を及ぼすことになった。

 

われわれは心の安定を保とうとしてはよろめき、水平線上に浮かぶ雲にことごとく暴風雨の前兆を見る。しかしながら、永遠に向かって押し寄せる波濤のうねりの中に、喜びと美しさが存している。何ゆえにその心をくまないのであるか、また列子のごとく風そのものにしないのであるか。

第七章 茶の宗匠より。日常の ”いまここ” にある喜び、美しさに気づくかどうか。そのためには、自らが美しくなければならない。ゆえに、自らを律する心が求められる。

 

美を友として世を送った人のみが麗しい往生をすることができる。大宗匠たちの臨終はその生涯と同様に絶妙都雅(ぜつみょうとが)なものであった。彼らは常に宇宙の大調和と和しようと努め、いつでも冥土へ行くの覚悟をしていた。

第七章 茶の宗匠より。まさに、いまを生き切っている感じ。すごい、極めているなあ。その覚悟を持った生き様が、ただただ尊いです。

 

 

茶の本」に感じる物足りなさ

ふぅーーーう、「茶の本」をちゃんと読むって大変だな。

茶道の精神世界をわかりやすく説明する言語力、それを支える広く深い教養、日本文化への敬愛…… 名著とはこういうものなのか、と天心の偉大さを感じてやまない。

本当に、本当に、素晴らしい本だったのは間違いないのだ。

 

が、ここまでしっかりと読み込んで、はじめて気づいたことがある。

それは、わたしの好きな第六章冒頭文のニュアンスは、他の章には感じられないということ。

茶の本」は思想家としての天心の志が強く、わたしの好きな「美しくて、愛があり、知性が溢れる言葉」はさほど散りばめられてはいなかった。

(本の目的からして当然なのかもしれないけれど…… ファンとしては切ないのだ)

 

茶の本」は、素晴らしいのだけど。。。

天心の表現力って、もっと別ベクトルのものがあるような気がするのだ。それは、理路整然とした難しい表現ではなくて、知的セクシーな表現力。

天心のそういう文章を、もっと読んでみたい。

茶の本」「東洋の理想」「日本の目覚め」と言った彼の代表作には含まれない、彼のもっとハートから湧き上がるような文章を。

 

一体どこで出会えるのだろう?

と、必死にネット調査をはじめたら、嬉しいヒントに巡り会えたー!

 

 

やっぱり愛の表現者だった!天心の書くラブレター♡

これは、有名な話なのだろうか。

textview.jp

少なくとも、わたしはこの事実を知らなかったけれど、知れば知るほど「ああ、こんなにも純粋に愛に生きた人だったのね」と妙に納得してしまった。

 

天心は50歳のとき、生涯最後の恋に落ちた。お相手は、インドでたった2回だけ会った事のあるバネルジー夫人である。

彼女は生涯に五冊の詩集を出した詩人でもありました。このときの天心のインド滞在は一か月弱の短いもので、ゆっくりふたりきりの時間をもつようなことは難しかったと思われます。しかし、天心がインドを離れたあと、ふたりは文通を通じて急速に接近していったのです。

50歳での運命の恋、しかもお相手は詩人の外国人女性だなんて。
天心、カッコよすぎです。


第二次世界大戦後、インドのバネルジー夫人の遺品から天心からの来信19通が、ついで、日本において、天心の弟由三郎の手元に保管されていた夫人から天心あての来信13通が、それぞれ発見された。

その内容の一部がこちら。

私は、海辺に座って、一日中、海が逆巻き、波立つのを眺めています。いつか海霧の中からあなたが立ちあらわれてこないかと思いながら。いつか、あなたは、もっと東の方においでになりませんか――中国へ──マレー海峡へ──ビルマへ。ラングーンなどカルカッタから石を放り投げるほどの距離にすぎないではありませんか。空しい、空しい夢! でも、なんと甘美な夢か。

相手を想い焦がれる、切なくも、温かい気持ちが伝わってくる。

言葉が美しく、愛があり、知性が溢れるこの感じ。まさに「茶の本」の第六章で醸し出されているセクシーさそのものだ。

 

ああ〜、まさかこんな展開になるなんて。「茶の本」を読んでいたときには想像もしなかった。

新たな天心を知ることができて満足。本当に嬉しい!
彼の表現力は、本当に素敵だー!

 

醸し出される「美」と「愛」

彼は天性の詩人。
きっと、右脳も左脳もフル回転なエネルギーの持ち主だったんじゃないかなあ。

天心の文章から「美」や「愛」を感じるのは、天心の内に秘められた感情の表れなんだと思う。まさに、文は人なり

 

今回、天心を調べまくったわたしは、最後にこんなサプライズを手に入れた。
それは、天心の生涯をめぐる女性たちとの秘められた愛と、天心の心の奥底に潜む「暗愁に閉ざされた牢獄」を描ききった評伝文学の傑作、とのこと。

ベンガルの憂愁―岡倉天心とインド女流詩人 (ウェッジ文庫)

ベンガルの憂愁―岡倉天心とインド女流詩人 (ウェッジ文庫)

 

 一体どんな内容が書かれているのだろう。
中古品での入手ならできそうなので、早速ポチる。到着が楽しみで楽しみで仕方ない。

届き次第、また天心の記事を書こうーっと。

 

楽しみはつづく☺︎